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勇気

私は2014年、いろんな思いをしながら過ごした。

さくらを見守った事とその後の対応全てが初めての経験で、考えたり、迷ったり、調べたり、日常生活は普段通りだか、色んな出来事があった。これから何かを始める時は夢と希望があるけど、虹の橋は私の中では愛と勇気だった。

虹の橋に送り出した詳しい話は、中々聞く機会がなくて、何がよいのかもわからず、思い通りにならなかったりもした。今でもまだ迷うこともある。

ただ、不思議とまだ涙が流れていないのだ。お友達と話した時は胸が痛くなったけど、一度も泣いていない。私はやりきった感と、さくらは愛犬学園のお友達が大きな支えだった。衝撃的な時間の中、感謝もいっぱいあった。

そんなこんなで、これも勇気だけれど、この愛と勇気の出来事も書くことにした。

手帳
まず、さくらの手帳(診察券ならぬ診察手帳)がある。病院の受付で最初に『食欲』、『便』、『元気』を聞かれるので、みんな口頭で返事しているけど、私はその手帳に書いて「こちらに書いてあります」と渡していた。

その他に気になることや最近の状態も書き、最後に聞きたいことを書いて手帳で報告していた。記録になるし、変化が分かる、受付と先生への伝達も間違いない、そして何より自分も忘れない。ページ数が足らなくて自分でページを増やしていった。そんな手帳だ。
6ヵ月前
とある休日、午前中は庭でノーリードで元気に遊んでいたが、午後は急変して下痢・嘔吐が続き、立ったまま動けず、2時間様子を見た後診察して頂き、下痢止め・嘔吐止めの注射をした。これから体重が減ってくるとのこと。

連続5日通院で、内4日間注射。3日目よりボールを咥え始めた。4日目いつものように側に寄って来た。このまま体力は衰えていくのかな・・・と思ったが、出来ることは一緒に頑張った。特に体重減少はふりかけを工夫し維持できた。
5ヵ月前
病院に行く直前、さくらは車を見た途端ダッシュして、乗ってすぐ卒倒・失神してしまった。約3分後回復して予定通り病院へ。「興奮は人間がコントロールすること」と言われた。

ある日、昼休みに家に戻ったら浴室の入り口で動けなくなっていた。嘔吐と下痢のあと、あちこちの部屋の床にヨダレのあと。そのまま病院へ。

体調が良い時は庭で遊んだり、車に乗ったりしているが、悪い時は数時間動けなくなった。良い時と悪い時の繰り返しになり、とうとう介護に入ったと認めなくてはと思った。受け止めて頑張るだけだ。この時のために2011年に介護の資格の取得した。

病院通いも更に多くなったが、先生は「こんなに大事にされているのだから、何とかしたい」と言って下さった。16才の誕生日を迎えられるかは、これから次第とのこと。

何かあるときはGWまで待ってほしいと思ったが、その後元気・食欲も回復し、散歩の足取りも軽くなった。私の努力よりさくらの精神力だと思った。泣きもせず吠えもせず、私より強かった。

30cm位の箱に、マナー袋の他におしっこシート・ビニール袋・小さく切ったペーパータオル等を入れて移動用セットを作り常備したが、さくらは幸い殆ど使わずに済んだ。
3ヵ月前
食欲は元気な頃の8割。寝ている時間は多いが、起きている時はボールを咥えている時が多い。ボールを持ってくる健気な姿にいっぱい褒めてあげた。

その後、車に乗るときの興奮で2回目の卒倒・失神、これで終わりなのかと脳裏をかすめながら心臓マッサージをした。駆け出すのが怖くて庭でのノーリードは中止。お買い物に付き合ってもらうのも中止。いつもの庭の探検は付き合った。

フィラリア予防は副作用を考慮して中止。温室時計も管理。室内では食事の台を高くしたり、玄関に緩衝用のマットを置いたり、体に負担のないよう何でも気付いたらすぐ改善した。排尿も時間、場所を選べなくなったが、卒倒・失神は止めることはできた。

散歩中に腰が抜けたようになり、その後10日間同じ状態になった。帰宅後の散歩が嬉しくて興奮し、玄関から急いで出て行き、その後の心臓発作だった。とにかく走らないように注意したが、意欲があるので大変だった。

それで命を落とすケースがあるため、散歩の流れを変えて、帰宅後一旦家の中に入り私も穏やかに歩く、血管拡張剤を投与後効果ピークの1hr以内(30分前後)に、落ち着かせて玄関を出た。自己流でも適した対応を心がけ、その症状は完全に止めることができた。

会話は、自己流で振動での会話が増えた。さくらの頭に私が顔を乗せて骨の振動で話していた。歌や話している時もちゃんと聴いてくれた。
1ヵ月前
食欲は元気な頃の7割。食べ始めるまで手から食べさせたり、好きなお菓子もふりかけにしたりで、体重の急激な変化を止められた。また、下痢の後に下痢止めではなく、様子を見て予防として投与することもあった。

朝夜の散歩も帰りは抱っこの時もあったけど毎日行くことができた。飛び乗っていたベッドも、登るような感じだが、それでもいつもヒト用ベッドに上がっていた。夜は何度も起き、一晩で10回以上は寝室に来ていた。中々寝ないのに、朝は早くから起きていた。

15日前より、食事も殆ど受け付けず、ふりかけだけ舐めたりだった。栄養不足でも、立てるし、散歩も行けるし、精神力が尋常ではない。

10日前より、夜中に歩いて玄関に落ちたこと、失禁、家具でのケガ防止、リビング隣に特別室を作った。緩和ケアのイメージで家具・備品を移動し、カーペットを敷き、おもちゃも並べ、消耗品を買い揃え1日で完成した。

同日オムツ開始。タオルも小さく切ってレンジの隣に常備し、濡らして少しチンして使用、ペーパータオルも1日1ロール以上使用。オムツは後始末にノミコームも使い1時間かかった。病院でこの状態でキレイな事に感心された。

数ヵ月前から、症状に応じて注射、6時間点滴と頑張ったが、助手席に座れない状態での連日通院は悩んだ。車の振れについていけなくなり、最後の通院は荷台に乗せた。

悩み抜いて、2日前これ以上の無理な点滴は苦痛になるため止め、精神的なケアにした。その時点であとは時間の問題となってしまうが覚悟した。
虹の橋の日
朝の散歩は庭で、初めて排尿ができなかった。昼休みも散歩に行くと言うので、また庭に出してあげた。ベッドに戻したら、口角に少し泡が付いてた。栄養失調・脱水症状で目やにが出る。

夕方は外に散歩に行った。すぐ戻ろうと思ったのに、夕方の散歩コースではなく、自分から朝の散歩コースに向かって行った。止まったり歩いたり。「無理しなくていいよ、お家で遊ぼう。」と抱っこで帰ってきた。私より先に歩くほど頑張っていた。

帰ってからそのままソファーに座り、暫く抱いたまま過ごした。さくらは安心して私の左肩に顔を乗せ、身を任せた。抱いたままいつもの松山千春の”いのち”を歌ってあげた。

夜8時頃、呼吸が聞こえたので様子を見に行った。大きな口を開けて荒い呼吸をしていた。舌もよじれて伸びきっている。病院に連絡し、家でそばにいてあげることにした。

最初は怖さばかりで何もできなかったが、意を決して声をかけたり体を撫でたりした。その場を離れてもさくらの視界からは外れなかった。そんな中、さくらは動けないのに顔をこっちに向け、急に「パク・パク・パク・パクッ」て音を出した。目と目が合った時に間違いなく口が開き何か言った。

2時間後呼吸が軽くなったので、特別室から一緒の時に過ごしているリビングにベッドのままズルズル引きずって移動した。呼吸数は少し多いが、鳴きもせず吠えもせず、唸ったり震えたりもせず、静かに横なっていて寝ていて、いつのまにか息が止まっていた。

暫く名前を呼ぶ時に様子伺いが主だったので「さくら・・・」と語尾が下がっていたが、やっと心配なく「さくら〜!!」と呼べた。
葬儀
ペット葬儀をネットで調べ、市内の専門店に当日夜から実施で交渉した。すぐに板状のドライアイスを2枚入手し、仕事に行き急ぎの仕事のみやっつけ、供物を買い回り、供える形にして、怪獣とボールも持たせ、さくらに渡す手紙も書いた。

体をきれいにして、夕方18時より約3時間で葬儀・火葬が行われ、夜遅く小さくなったさくらと帰ってきた。私は人の火葬場も経験がなく、1日で衝撃的なことばかり。

本当は体をキレイにするのも、動かすのも、車に乗せるのも、葬儀に行くのも、焼却も、待ってる時間も、お骨拾いもぜ〜んぶ怖かったが、さくらに私が怖いと思う事が可哀想なので頑張った。
49日
考え抜いた結果、市内のお寺に納骨した。個室(縦横約30cmの棚)は場所によってランクがある。保管期間は1年で7年まで延長可能。合同保管はお飾りはできない。さくらは個室にし、ピンク一色の1番華やかで可愛い部屋にした。

時々会いに行っているが、今でもコンクリートの地下室に1人で入るにはとても勇気がいる。毎回気合いを入れて電気を付け、扉を開け階段を下りて行く。

その後春の彼岸には約150名が集まった合同法要があり、昨日8月9日に法要(施餓鬼)が行われた。そして秋の法要が過ぎ、さくらは1年で部屋から出て自然に帰すことにした。

4ヵ月が過ぎ、さくらが3回目の夢に出てきた時に、やっと現状を理解して笑顔で迎えてくれた。私の勝手な思い込みだが、虹の橋では時間の経過が今までの逆でゆっくり過ぎるのだと思った。首のふわふわの被毛を触りまくり一緒に喜んだ。

その後、さくらの部屋の回りの子たちも、さくらと同じように造花を使ったお飾りが増えてびっくりした。
そして今
13才の時に将来歩けなくなると診断されたが、よく16才の最期まで散歩ができたと思う。食欲も半年前に体重が減って行くと診断されても、手作りササミとヤマザキのチーズ蒸しパンとブルボンのルーベラのふりかけ、食べ始めは手から等で食欲を維持できた。あれもこれも驚異的なことなんだと自分なりに思っている。

散歩中に心ない人に切ない言葉を掛けられたりしたが、めげずに頑張った。私はそんな時は温かく応援しようと思う。そうして皆頑張ってきて本当に凄いと思った。私も頑張ってこられたのは、お友達の存在がとても大きかった。これからのさくらにとっても、先輩のお友達犬と一緒にいるので安心だ。さくらも後輩のお友達はちゃんと面倒を見ると思う。

虹の橋に送り出したお友達から、最期にみせる『紀州魂』の言葉を聞いた。最期まで凛としたさくらもそうだと思った。一緒に過ごした16年以上の月日、その全ての時間に感謝している。

さくらには何千回も『いのち』を歌ってあげ、介護期間は中島みゆきの『ファイト』のサビの部分が自分の応援歌になり、今でもこのフレーズが時々流れる。

1998年に愛犬図鑑を購入し、沢山の犬種の中で紀州犬の親子の写真を見たことが全ての始まりだった。
私は紀州犬の存在を知って良かった。そして、紀州犬と過ごしたことを誇りに思う。 
                                                       2015.8.10(生誕記念日)


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